『子平真詮』
『子平真詮』は、中国の伝統的な命理学の著作であり、清代の乾隆年間の進士である沈孝瞻によって整理、編纂された。
考証によれば、同書は、明代の『耕寸集』という命理書に由来する。
『子平真詮』は、全四十八章からなり、子平命理学の「前三冊」(子平真詮、淵海子平、 三命通会 )の一つに属し、最も分量は少ないが、理論体系は最も精辟で格局による命判断体系に特化し、五行、干支、十神、用神、相神を理論の主軸として命理格局の成敗と行運の法則を体系的に詳述している。
同書の内容は、四部に分かれる。
前七章では、干支の旺衰と十神の基礎を解析し、第八章から第二十二章までは用神の取り方と格局の変化を論じ、以降の章では六親の判定と行運の法則を探り、最終篇では十神の応用を詳しく解釈している。
民国時期に 徐楽吾 の注釈を経て刊行され、子平命理学の理論的枠組みをさらに充実させた。
同書の序文を通じて、著者がこれらの文章を書いた当初は成書する意図はなく、偶然に友人に読まれて命学の珍宝とみなされたことがわかる。
その友人は、この書が『淵海子平』に注釈や解釈を加えるに足ると考え、「真詮」と名付けた。
1.古代の伝統的な命学の研究範囲と特徴について
我々が命理学を学ぶなら、古代の原始的な命理学を学ばなければならない。
古人と現代人は置かれた時代背景、環境、文化的教養、人生観、価値観が大きく異なるため、命理研究の重心も大きく異なる。
命学研究は古代、教養ある知識人によってのみ成し遂げられたが、これらの知識人が書を読む目的は科挙に合格し官吏となることであった。
そのため、命理研究の着眼点も人生の富貴貧賤の大勢を判断することに置かれ、具体的な流年の出来事や特定の事柄の予測には重点を置かなかった。
なぜなら、人事の予測占卜には六爻、六壬、奇門といった専門の術数があり、命学は人が貴命か富命か、一人の人生の大まかな浮き沈みの趨勢を判断できれば十分であったからである。
これは、現代の命学が占卜化する傾向にある特徴とは異なる。
原始的な命学の理論から見ると、原始命学は実は格局法による論命そのものである。
この論命の方法は、それ自体が四柱モデルを何らかの十神の格局に帰属させ、それを行運と組み合わせて解釈するだけで、モデル外の様々な人事の判断には関わらない。
特にこの『子平真詮は、用神と格局の成否、変化の道理を非常に明確に説いている。
大まかに言えば、格が成れば命は良く、格が敗れれば命は悪い。
具体的な流年や関わる事象については、ほとんど言及していない。
これは、古代命学が富貴を専門に論じたことの集中した体現であると同時に、現代における応用過程で深く掘り下げる必要のある点でもある。
2.『子平真詮』の論命の主軸
『子平真詮』は、専ら格局によって命を論じる著作である。
ここで問うのは、彼のこの論命体系がどのように構築されたのか、体系全体を貫く主軸となるものはあるのか、我々が把握しやすいものはあるのか、ということである。
答えはもちろん肯定的である。子平真詮の論命の主軸は存在するだけでなく、非常に明確で、理解しやすい。
これがこの偉大な著作の偉大なところである。
筆者の要約によれば、同書の論命の主軸は次の通りである。
五行 、干支、十神、用神、相神、格局、行運。
全書はおおよそ四つの主要部分に分かれる。
第一章から第七章までが第一部分であり、主に干支と 五行 の由来、干支の旺衰の判断、干支の相互作用とそれによって生じる十神などを説明している。
この部分で最も価値があるのは、干支の旺衰の判断であり、本書が論じる古人の旺衰判断は非常に筋道が立ち、非常に単純で、実践性が高く、現代の「点数評価による旺衰判断」に対する最も強力な風刺と覆しと言える。
『子平真詮』の論命の主軸について
第八章から第二十二章までが第二部分であり、用神とは、何か、如何に用神を取るか、用神によって格局の高低変化を定め、さらに相神の概念や吉神・凶神の成格・破格の問題を明確に体系的に説明している。
この部分は、本書の核心理論部分であり、八字理論の「体」(本体)であり、八字命理全体を学ぶ上で非常に重要であり、筆者も重点的に注釈を加える。
第二十三章から第三十章までが第三部分であり、主に八字によって如何に六親を確定するかを概括的に説明し、さらに行運を分析する原則などを提示している。
この部分の「八字による六親確定」のテーマは、本書において実際の鑑定に応用される数少ない部分であり、分量は長くないが、その理論的・実用的価値は高い。
如何に行運を分析するかについても、本書は一貫して格局の成敗に基づいて論じており、核心理論から外れることはない。
第三十一章から第四十八章までが第四部分であり、この部分の論述は四吉神を先に、四凶神を後にという順序で行われる。
十神が用神として具体的な格局で成格し、行運において如何に応用されるかを体系的に説明しており、八字理論の「用」(応用)にあたる。
これによって命学には「体」と「用」が備わり、ほぼ完備に近づいた。
なぜ、『子平真詮』を学ぶのか
1.『子平真詮』は、命学理論の基礎、入門の鍵
いかなる学問も独自の理論的観点と分析方法を持つ。
易学を神秘学と説き、不可知論や唯心論を宣伝する見解は全て取るに足らない。
六壬術は、今から2500年以上の歴史を持つが、その基礎理論が完備しているため、歴代の易学者の研究によって日々完璧に近づき、古くても新しく、現代でも広く重視されている。
命理学も、また同様である。
『子平真詮』という著作は、まさに淵海子平の基礎の上に、命学の理論的方法をありのままに説き明かしたものである。
『子平真詮』は、命理学の理論的基礎であると同時に、命学入門の金の鍵と言える。
これをしっかり学べば、堅固な基礎が築かれ、三命通会や他の著作を読む際にも途方に暮れることはなくなる。
2.『子平真詮』の論命モデルは、最も学びやすく、最も入門しやすい
格局論命は、『子平真詮』における論命の主要なモデルであり、このモデルは滴天髄のいわゆる「日主の強弱旺衰」や窮通宝鑑の 五行 調候論命と比較して、以下のような利点がある。
まず、月令十神を用神の核心とする論命モデルは、重点が明確で、日主を除く他の六字が用神を中心に展開されるため、八字を分析する際に重点を捉え、途方に暮れることがない。
次に、格局論命には拠るべき法則があり、従うべき規則があるため、盲目的な不可知論に陥ることがない。
さらに、以上の二点を合わせて、格局論命法はその要旨をしっかりと把握さえすれば、非常に簡単で学びやすく、特に命学を初めて学ぶ者に最も適していることを示している。
では、子平真詮をどのように学べばよいか
1. 思想を解放し、調候論や 五行 旺衰扶抑論から徹底的に脱却し、格局用神の意味を正しく認識し、五行の強弱旺衰のバランスや扶抑による論命モデルから脱却する。
現実には、この方法論で学ぶ多くの者は、八字を得た後、時間の多くを五行の旺衰を判別することに費やしており、この理論を十数年学んでも、依然として五行の旺衰強弱を見分ける段階に留まっている者さえいる。
これらの理論を完全に掌握・応用できる達人であっても、旺衰強弱の判別でしばしば誤りを犯し、数人の大師の見解が一致せず、ある者は旺と言い、別の者は弱と言うということがよくある。
2. 月令用神を要として、相神格局の法則を掌握する。
沈孝瞻の『子平真詮』は、正統な子平命理学の典籍であり、先賢の古典的な論命体系を継承し、格局用神に理論的根拠を提供している。
月令格局を中心とした客観的分析体系は、八字を組み合わせ構造に基づいて大きな類型に分け、その後、細部の問題を推敲する。
格局の核心は、月令であり、格局用神は、月令を定格させるものであり、すなわち月令の財・官・印・食・殺・傷のこの六神であり、これに基づいて六格に分けて命を論じる。用神は格局の核心であり、八字の提綱である。
3. 実践と総結に勤しむ。
序文と目次
原序
私が幼くして学び始めた頃より、子史の諸集を読むことを好み、暇なときには子平の『淵海』、『大全』を少し流し読みし、その意味もほぼ理解していた。
しかし師について学んだことはなく、五行の生剋の理については、いまだに得心がいかないところがあった。
その後さらに『三命通会』、『星平大成』などの書を購入して手に入れ、心を込めて研究し、昼夜考えを巡らせた結果、ついに命運を信じざるを得ないこと、そして命運を知る君子はその正しいところに従って受け入れるべきであることを悟った。
戊子 の年、私は副貢から官学教習に補任され、宿舎は阜城門の右にあった。同郷の章君安公と知り合い、初めて会ったときからのように親しく、気が合って隔てなく、官舎での授業の暇があるたびに、君安の住まいを訪れては『三命』について語り合い、互いに論難を交わし、その蘊奥を余すところなく明らかにした。
やがて三年の任期が満了し、宛平の沈明府の役所に住まいを借りたところ、山陰の沈孝瞻先生が著した子平に関する手書きの三十九篇を手に入れ、思わず茫然自失し、以前の自分がどれほど表面的に理解していたかを後悔した。
そこでその書を携えて君安に見せたところ、君安は慨然として嘆息し、「これは子平を論ずる者の真の解説書である!」と言った。
先生の諱は燡燔、乾隆 己未 の進士に及第し、天資は聡明で悟りが早く、学業は淵遠で深遠である。
天地自然の造化の精微について、もとより神のごとく明らかにし、心のままに変化させることができた。
その用神の成敗得失についての論、また用神が成によって敗を得、敗によって成を得る理、用神は必ず忌神と併せて見るべきこと、および用神の先後の生克の区別、さらに用神の透干と蔵支、有情と無情、有力と無力の弁別について、その論は疑わしきものを微細なところまで、極めて詳細かつ明らかにしている。
これは先生の一生の心血が注がれたものであり、これを埋もれさせてはならない。
君安はそこで出版することを企て、天下の命運を論ずる者に対して、最も妥当で変わることのない基準を立て、あらゆる根拠のない曖昧な推測や管を覗き蠡で測るような浅はかな知恵を、すべて惑わされないようにした。
これはまた、命運を論ずる者の幸いである。
しかも、ただ命運を論ずる者の幸いであるばかりでなく、天下の士君子の幸いでもある。
なぜならば、人は命運を知ることができれば、世俗的な争いをやめ、身の程をわきまえない望みを退け、すべての富貴・窮通・寿夭の遭遇を天に任せ、従順にそれぞれ義と命に安んじて、聖賢の道に向かって共に励むことができるからである。
これこそ士君子の大きな幸いではないか。これを見て、君安が人の善を埋もれさせず、同好の士に公開したその功績は、また多くないと言えようか。そこで喜んでその縁起を序する。
乾隆41年 丙申 初夏、同後学胡焜倬空甫謹んで識す。
目次
子平真詮 巻一
十干 十二支 を論ず
陰陽 の生剋を論ず
陰陽 の生死を論ず
十干配合の性情を論ず
十干合して化せざるを論ず
十干、時に得て旺まず、時に失して弱からざるを論ず
刑冲会合の解法を論ず
子平真詮 巻二
用神を論ず
用神の成敗救応を論ず
用神の変化を論ず
用神の純雑を論ず
用神格局の高低を論ず
用神について:成功から失敗へ、失敗から成功へ
用神と気候の得失を配することを論ず
相神の重要性について論ず
雑気の取り方について論ず
墓庫と刑冲の説について論ず
四吉神が格局を破ることについて論ず
四凶 神が格局を成すことについて論ず
子平真詮 巻三
生克の先後による吉凶の分かれについて論ず
星辰は格局に関係ないことを論ず
外格の用捨について論ず
宮分の用神と六親を配することを論ず
妻子について論ず
行運について論ず
行運による格局の成立と変化について論ず
喜忌は支干によって区別があり、支中の喜忌が運に透清されることを論ず
俗説による格局の拘泥について論ず
俗説の誤伝について論ず
正官について論ず
子平真詮 巻四
正官の運の取り方について論ず
財について
財の行運について
印綬について
印綬の行運について
食神について
食神の行運について
子平真詮 巻五
偏官について
偏官の行運について
傷官について
傷官の行運について
陽刃について
陽刃の行運について
建禄月劫について
建禄月劫の行運について
雑格について
雑格の行運について(付論)
参考、『耕寸集』
清の敬一堂による抄本『耕寸集』は、目にすることができる『子平真詮』の最も古い版本であり、後者の多くの命例には姓名が記されていないが、前者には基本的にすべて記されている。
次に、一字一句照合した結果、『子平真詮』には多くの誤字があり、一部の段落が脱落しているが、『耕寸集』の方がより完全である。
『耕寸集』
耕寸集一冊、巻数なし。
台湾中央図書館所蔵の善本。
子部術数類命相之属。
明の不著撰人と題され、清の敬一堂による鈔本。
版框の大きさは長さ21.8センチ、幅15.5センチ。
半ページ8行、1行20字。
単魚尾。第1、第2ページの版心部分に「子平真詮」の四字あり。
耕寸集は、まさに明版の子平真詮である。
照合したところ、本書の命例の多くは、『子平三命通変淵源』と『三命通会』の二書から摘録されたものである。
『子平三命通変淵源』は 、南宋 末に成書し、『三命通会』は、明の万暦6年(西暦1578年)に成書した。
これにより、本書は明の万暦6年以降の明末期に成立したことが分かる。
著者の生涯及び出身地はともに不詳である。
その目録を調べたところ、47篇を得、民国12年(西暦1923年)の紹興育新書局印本『子平真詮』の編次と同一であり、育新本の欠漏及び誤りを補うことができる。
世に伝わる子平真詮は、乾隆己未の進士である沈孝瞻先賢の命学に関する筆記である。
乾隆41年(西暦1776年)、胡焜(字は倬云)が『子平真詮』に序文を書き、「已にして三年の期満ち、僦居す宛平の沈明府の署に、山陰の沈孝瞻先生の著せる子平の手録三十九篇を得たり」と述べている。
沈孝瞻は、康熙35年(西暦1696年、沈氏の生涯の詳細は付録に詳しい)に生まれたことを考えると、子平真詮の前身である『耕寸集』は沈氏の手によるものではないはずである。
耕寸集すなわち子平真詮は、沈氏の手によるものではないが、彼が耕寸集の伝播に功績があったことは事実である。
ちょうど造化玄鑰が明末に成書し、清初に日官の手を経て陳溥(字は永叔、号は南陔、天台の人。康熙52年西暦1713年進士、内閣中書を補い、万寿盛典の編纂に参与。湖南 You County の知県を務め、後に官を辞して帰田した)によって増删されて成書したように、また甄松年(乾隆54年西暦1789年已酉科進士)が『欄江網全集』を著し、『造化玄鑰』に対しては伝承の功績はあっても原作者ではないのと同じである。
明の崇禎13年(西暦1640年)、イタリア人イエズス会宣教師の潘国光が上海に到来した。徐光啓の孫娘である潘瑪尔蒂納(パン・マルティナ)の援助により、彼は元四川 布政使 であった 潘允端 が故郷の上海県城内安仁里に建てた邸宅「世春堂」を購入し、世春堂を教会に改築した。
これを「敬一堂」と名付け、イエス・キリストを主保とし、同時に院内に観星台を建造した。
清の雍正9年(西暦1731年)、雍正帝はカトリック教の禁教を宣布し、各地の天主堂を没収した。
上海の敬一堂は関帝廟に改められた。
肖清和の『明清基督宗教漢語文献総書目 漢語基督教文献総書目( 明末清初 部分)』には、敬一堂が刊刻または手書きしたキリスト教教義を主とした書籍が多数収録されており、敬一堂が公開出版を行っていたことを証明しており、その時期は明の崇禎13年から清の雍正9年までの間と推測される。
これにより推測すると、『耕寸集』の手抄本が伝写された時期は雍正9年以前であると考えられる。
乾隆41年、胡焜が『子平真詮』に序文を書き、
「先生は諱を燡燔とし、乾隆己未の進士となり、天資穎悟にして、学業淵邃なり。その造化の精微に於いては、固より神にして之を明らかにし、変化心に従う者なり。其の用神の成敗得失を論じ、又用神の因成して敗を得、因敗して成を得、用神の必ず兼ねて忌神を看ることを要し、用神の先後生尅の別、並びに用神の透と全、有情無情、有力無力の辨を観るに、疑似毫芒、至って詳か且つ悉し。是れ先生一生の心血、生を注ぎし所なり、是れ安んぞ埋没せしむべけんや」
と述べた。
胡焜が『子平真詮』に与えた評価は、同様に『耕寸集』にも適用される。
先賢 徐 子平以来、子平命学は多く秘伝の形式で薪火が伝承されてきた。
南宋の徐大升はその大成を得て、『子平三命通変淵源』を著し、子平命学は光を放つことができた。
初期の子平命学の理論から見ると、原始的な子平命学は実は格局法による論命である。
『耕寸集』一書は、原始子平命学の用神の意味を深く掘り下げ、子平三命通変淵源中の富貴命例を大量に参考にし、用神と格局の成敗、変化の道理を余すところなく闡明し、具体的な流年及び関わる事柄についてはあまり言及せず、古代命学が富貴を専ら論じた集中した体現であるとしている。
『子平真詮』一書は、民国の徐楽吾による評注を経て、談命家の圭臬となった。民国25年、徐楽吾の『子平真詮評注』が刊行され、方重審の序文には「残る子平一派には、尚ほ線索尋ぬべし。此の中の旧籍、首に推すは 滴天髓 と子平真詮の二書、最も完備精審なり。後に命学を言う者、千言万語、其の範囲を越えず、江河の日月の如く、廃すべからざる者なり」とある。『耕寸集』の再発見及び校訂出版は、禄命文化史、禄命文献学などに深遠な影響を及ぼすであろう。
