七政四余占星術は、七つの主星と四つの補助星を示す。
七政と四余は、古代中国で用いられた星の名前で、「七政」とは、「太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星」を指す。
また、「四余」とは、古代天文学によって作られた架空の星(古代中国では隠された星、あるいは見えない星と考えられていた)で、ラーフ、ケートゥ、紫気、月孛のことだ。
ラーフ(太陽と月を貪り食うアスラ神、日食と月食としても知られる)とケートゥ(アスラ神の蛇の尾を持つ半身、彗星としても知られる)は、インドから伝わった古典的な惑星名である。七つの天体とともに、これらは「九天」または「九つの執行者」(サンスクリット語:ナヴァグラハ)と呼ばれている。
唐の時代には、公式の天文観測や暦の計算、またインドから伝わった九天法星座法にも使用されていた。
紫気と月孛(月白)は、比較的遅れて現れた。
中国の呪術師たちは、唐末から五代十国時代にかけて、九天を九天を基に十一天に変え、七天四天命予知法を開発した可能性が非常に高い。
宋の真宗皇帝が道教を受け入れた後、11星は広く普及し、道教で崇拝される星の神となった。
紫気と月孛(月白)は、元と明の時代には公式の天文観測と暦の計算項目にもなった。
清朝初期には、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルが新しい暦を推進した。
4つの吉星の定義、使用法、計算方法に関する新旧暦の対立は、康熙暦論争の引き金の一つとなった。
9 世紀初頭にインドから翻訳された『七光天災害救援マニュアル(七曜攘災決)』によると、ラーフは月の軌道と黄道の昇交点を指し、インド占星術における「ケートゥ」は、月の遠地点ではなく、月が北から南へ黄道(太陽の通り道)を横切る点(月の南交点)だが、 ケートゥは月の遠地点(月孛、月白月が最も遅く通過する場所)を指すと記述されていた。
その後、唐末宋初期には、ラーフとケートゥの定義が変わり、一対のノードとなった。
したがって、当初の七政四余占星術は、月孛とケートゥ(計都)の混乱がみられる、
その後、ラーフ(羅睺)は、月の軌道と黄道の下降交点(第一交点とも呼ばれる)に変更され、ケートゥは昇交点(中間交点とも呼ばれる)となった。
清初期には、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルが、ラーフを昇交点、ケートゥを下降交点とする新しい方法を提唱した。
しかし、占星術師は通常、新しい方法に変更することなく、ラーフを下降ノード、ケートゥを上昇ノードとする古い定義方法に従い続けていた。
占星術師は、ラーフを「火星の残余」、ケートゥを「土星の残余」としていた。
紫気(紫气)は、28年ごとに天球を一周が、対応する天文現象は見当たらない。
閏年制度(19年に7回の閏年があるため、28年におよそ10回の閏年がある)に由来すると言われている。
別の可能性としては、1年に1つの星座を持つ「太歳」をモデルにしているというものがあり、 12の星座の周期が12年となる。
こうして、1年に1つの星座を持ち、 28の星座の周期が28年となる「紫気」と呼ばれる隠れた星が考案された。
占星術師は、紫気を「吉星」(『開元占経』では吉星を客星に分類している)や「木余」とみなしている。
月の遠地点(孛星)は、ケートゥの本来の定義を受け継いでいる。
『奇要浪在覚』ではケートゥを「月勃力」とも呼んでいるため、月の遠地点はケートゥとは区別されるべきである)。
それは月の遠地点であり、月の動きを妨げる隠れた星である。占星術師はそれを「水余」とみなす。
道教の神々
道教の文献「上青十一大灯火儀」では、七つの光星と四つの補助星を「太陽宮の太陽帝」、「月宮の月皇后」、「東の木徳木星崇華星主」、「南の火徳火星法執行星主」、「西の金徳太白白昊星主」 、「北の水徳陳星暁星主」、「中央土徳地干真星主」、「初期結節確立星羅陰瑶星主」、「地節末神尾落星克図星主」、「天一紫気道瑶星主」、「太一月彗星星主」と呼んでいる。
七政四余占い(五惑星占いとも呼ばれる)は、生年月日と出生時刻に基づいて十二宮(十二の宮)と二十八星座の度数を調べ、その人の運勢を予測する古代中国の占星術体系であり、秦堂五星、国老星、天官五星の三つの流派に分けられる。
秦堂五星は最も古く、僧侶の易興に由来すると言われている。
国老星は、唐代の道士張果老によって創始されたと言われ、秦堂五星を批判して設立された。
天官五星は、耶律楚材に由来すると言われ、最も新しい流派である。
七政四余占星術は、後に紫微斗数(紫星占星術)へと発展したが、紫微斗数における星はすべて仮想の星とみなされるのに対し、七星四星占星術では依然として天体の実際の動きを考慮している。
現存する最古の占星術書である三陳通仔は、唐の建中年間(8世紀末)に曹士蒍(そう しぎ、曹士兪とも表記)が作成した福田暦から派生した天文学的計算方法を使用している 。
この暦は、咸慶の5年を暦の始まりとし、雨季を年の始まりとしている。上元年を積算する年はなく、民間の呪術師によく使われている。
陳振孫の『知斎書禄解帝』にも関連する記述がある。
「東陽の呪術師、曹東業は、現代において五行について語る者は皆、唐代の先慶暦(すなわち伏天暦)を用いていると述べた。現在の王朝(趙宋)では十回以上も暦が変わっているのに、『百中経』は未だに古い暦に固執している。これでは間違いないだろう。そこで曹東業は現在の暦を用いて計算した。」
易興も張果も、七政四余星を用いた占いの技法を研究したり広めたりしたという記録は、公式の歴史書や初期の記録には見当たらない。
せいぜい、易興は、天文学、暦法、陰陽五行の研究に長けていたと述べられている程度である。
彼の著作は、暦法、太一(太一の統一)、鄧家(占いの一形態)に傾倒していた。
張果は、仙人の魔法的な変身を実演したと言われている。
さらに、七政四余星占いに用いられる11の天体は唐末から五代十国時代にかけて確立されたものであり、用いられる12の宮は9世紀初頭の「七星災害救済法(七曜攘災決)」に由来するもので、この二人の時代とは矛盾する。
したがって、後世の占星術師が古代の人物の名前を使って占術を広めた可能性が高い。
耶律楚材については、公式の歴史書には「天文学、地理学、法律、暦法、数秘術、仏教、道教、医学、占いに精通していた」と記されている。
彼の伝記に記されている数秘術とは、太乙、暦法、占星術(占星術ではない)を指す。
控えめに言っても、公式の歴史書は耶律楚材が暦法と占星術(『元史』に記されているように、「西に長い星が現れたとき、耶律楚材は『女真族は、支配者を変えるだろう』と言った。翌年、晋の玄宗皇帝は実際に崩御した」)と太乙などの占いの技法に精通していたことだけを裏付けている。
人の運命を予言していたという記述はない。
しかし、朱慕易の『万儒堂書誌』には「耶律楚材の五星秘書一巻」が挙げられており、明代初期に編纂されたものの書名のみを列挙している『文源閣書誌』にも本書が収録されている。
黄玉基の『千青堂書誌』にも「耶律楚材の五星秘書一巻」が挙げられており、五行に関連する占術書に分類されている。
したがって、耶律楚材が占術の技法を伝承した可能性はあり、さらなる研究と確認が必要である。
このように西洋占星学の本格的な研究者であっても、中国占術の相当な研究者であっても、七政四余占星学についてその全貌を知っている人はほとんどいない。
国の政治を占い、当たり過ぎるという評判から、国禁とされたためである。
中国式の占星学だということくらいはわかっていても、その誕生経過や歴史的変遷、本来の占断方法などについては今日まで謎のままにされてきたと言って良い。
七政四余占星学の真実だけでなく、中国命理占術全般に対してこれまで語られることは、なかった。
七政四余については、西洋占星学の歴史的変遷に対する知識、中国命理占術の成立過程全般に対する知識、インド占星学に対する知識、古代中国の歴史的背景に対する知識、そしてなによりも中国的発想力に対する理解力がなければ見い出し得ないことばかりだからである。
七政四余の「七政」とは何かといえば、国家を政する七つの元となるものといった意味合いの言葉で、肉眼観察可能な古代の七惑星を意味した。
古代中国において、七政四余という占星学が天下国家の動向と不可分であった証明でもある。
中国ばかりではなくバビロニアやイスラム世界でも占星学は為政者の導き手といえた。
中国では「七政」以外に「七曜」という呼び方もあった。
それでは、七政四余の「四余」のほうは何かといえば、これは四つの余りということで副次的な惑星といい、厳密には、四つとも惑星とは言えないが擬似惑星のような扱いを受けていた。
ただし、近代から現代にかけては「四余」が省かれてしまうことも多く「七政星学」として扱かう占星図も少なくない。
七政四余占星学が純粋に中国本土で生まれた占星学かといえばそうとはいえない。
バビロニアからギリシャ、ペルシャをへてインドへと伝わり、当時の仏教的色彩を施しながら中国へと迎え入れられた西洋占星学の中国化であり、発展形であることは間違いがない。
そこでまず歴史的確認が取れているバビロニア占星学から訪ねてみることにしよう。
西洋占星学の発祥地については、今もって正確なところはわからない。
シュメールだという説があり、エジプトだという説があり混乱しているが、個人のホロスコープとして実在しているのはバビロニアにおける紀元前410年に出生した人物のものからである。
ギリシャ文明圏では、紀元前62年が最初の記録である。
占星学の著述としては、1世紀のドロテオスやマニリウス、2世紀のプトレマイオスやウァレンスの著述が知られているが、それまでにギリシャ周辺地域で行われてきた占星学と自らの説との集大成として著されたプトレマイオスの『テトラビブロス(四書)』が、一般的には<その後の西洋占星学の原点>とみなされてきている。
天文学者であるプトレマイオスの著述は、なかなかに秩序だっていて、その当時としては科学的な内容でもある。
『テトラビブロス(四書)』より以前に書かれたマニリウスの『アストロノミカ(天文学)』などに比べテキストとしても完成されている。
『テトラビブロス(四書)』は、ラテン語読みであって、ギリシャ語では『アポテレスマティカ』、アラビア語では『キターブ・ル・アルバア』などと呼ばれたらしいが、いずれも「四書」とか「四巻書」とか「四部書」といった意味合いで、もしこの書がそのまま中国語で翻訳化された場合『四門経』と称された可能性がある。
唐代の中国で実際に著された書物の中に『聿斯四門経』一巻がある。『聿斯経』がギリシャ系占星術を指していることは中国史家の誰もが認めていることであり、聿斯経関連の書物も少なくはない。たとえば『都利聿斯経』『聿斯歌』『聿斯経訣』『聿斯隠経』『聿斯妙利要旨』『徐氏続聿斯歌』などである。
これらはいずれもギリシャ系占星術であるが、それ以前に輸入された西洋式占星術が無かったのかと言えばそうではない。
中国における最初の輸入品としての占星学は、インドにおいて仏教的色彩を施された「大蔵経」としてのインド占星学であった。
竺律炎と支謙が著した『摩登伽経』や竺法護が著した『舎頭諫太子二十八宿経』(『虎耳経』とも称される)をほとんど最初の書物と見てもよい。
これら二書の原典になっていると思われるのは3世紀にインドで著された『シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ』という書物で、仏教文学に占星術とインド古来の前兆占いを散りばめた内容となっている。
仏教的色彩のインド占星学として、最も強い影響力を発揮したのは、正式名称を『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』と言う長いタイトルの『宿曜経』で、不空が「翻出」し、史瑶が「筆受」し、楊景風が「修注」したものとされている。
史瑶の初訳本は759年に出ているが、西洋占星学であれば必ず登場する「おひつじ座」(白羊宮)から「うお座」(双魚宮)までの12星座宮については、一応語られてはいるが重視されず、個人的出生天体図(ホロスコープ)に対する作図法や判断方法も示されてはいない。
インドの宿曜経占星学における中心的テーマは、個々の出生年月日においての<月の27星宿(楊景風は28星宿)>に基づく判断方法のようであった。
『宿曜経』はその後、日本の弘法大師空海によってわが国にも伝えられている。
それでは『宿曜経』の方の原典は何なのかというと、インド化されたギリシャ系占星術の最初の書物とされている『ヤヴァナ・ジャータカ』や古代インドの占い百科全書である『ブリハット・サンヒター』に、「翻出」者である不空自身の占星学的仏教(密教)思想を加えた書物であろうと推定される。
インド以外では、チベットのスン・パ・ケンポが著した『占星術宝蔵略集清浄鏡』や『占星術清浄鏡要集』、ダルマ・シーラの著した『秘密密伝占星要門・太陽明』などのラマ密教の占星術書があるが、七政四余の成立に大きな役割を果たしたとは思われない。
個人の出生天体図の作成とその判断方法においては、先に示したギリシャ系占星術である「聿斯経」関連書籍に負うところが大きいと思われるが、それと共に金倶叱が著した『七曜攘災決』、一行が著した『梵天火羅九曜』、瞿曇悉達が著した『九執暦』、曹士薦が著した『符天暦』などが大きな役割を果たしていたであろうことは、日本の平安時代に活躍した第119代目宿曜師(ギリシャ系占星術師)などが遺した「宿曜勘文」の占断記録内容などからも明らかといえよう。
中国化されたインド・ギリシャ占星学としての七政四余占星学の登場は、張果老が著した『果老星宗』をほとんど最初の書物とみてもよい。
もしかしたら先に示した『都利聿斯経』や『聿斯四門経』にも中国化した部分が含まれているのかもしれないが、これらは原書が失われているので確かめようがない。
『果老星宗』は張果老が原著者ではあるが、現代にまで伝えられているのは鄭希誠の撰による著述としてである。
その『果老星宗』のなかみを見ると自説としての七政四余を述べているばかりではなく「聿斯経」からの抜粋も多い。したがって張果老だけで七政四余としての占星学を創始したとみる事はできない。
張果老の原著としては『果老星宗』が有名であるが、撰者不明ながらも張果老の説が収められている七政四余占星学の原書としては『星命溯源』五巻もある。
あまり知られていない『星命溯源』という占星学書五巻の構成は、第一巻に張果老の学説が掲げられ、第二巻には李燈の学説問答、そして第三巻から第五巻までは鄭希誠による註説が加えられるような形式をとっている。
つまり、張果老の影には常に鄭希誠がいるようだ。
これまで述べてきた書物以外で、七政四余占星学の構築にいくぶんでも影響を与えたと思われるものとしては、耶律純が撰した『星命総括』文言のみの『耶律真経』『壁奥経』『望斗経』『琴堂歩天警句』『演禽通纂』などの書籍がある。
これらの内、耶律純が撰した『星命総括』を除くと、他はいずれも著者、撰者が判然とせず『演禽通纂』以外は出生天体図の起例や作図法さえも記されてはいない。
ただ『壁奥経』という書物には「霊合120格」『琴堂歩天警句』という書物には「富貴69格」とそれぞれに「格 実はこの「格」というものの存在が、七政四余占星学と他の中国命理占術とを結びつける重要な秘密の鍵の一つだ。
事実、鄭希誠の撰による『果老星宗』でも「巻三」において星格・定格合わせて184の格が語られている。
中国における他の命理占術、例えば「四柱(子平)推命」や「紫微斗数」でも初期の占断方法では「格」または「格局」というものが重視されていた。
中国の占術ばかりではなく、インドの占星学でも「格」に相当するものは存在していた。
「ヨーガ」と呼ばれるものがそれであるが、「ダーナ(富をもたらす)・ヨーガ」「ラージャ(王者になれる)・ヨーガ」「アリシュタ(悲惨をまねく)・ヨーガ」など一定の条件を満たすことによって成立する多数の「ヨーガ」が継承され現在でも存在している。
このような見方や占断方法が先行していたのは、ギリシャ・ペルシャ系占星学自体がそうであったようにおそらくはインドの方であった。
もしかしたらインド以前から既にそれは存在していたのかもしれない。
インドで「ヨーガ」と名付けられていたそれを中国化する過程で「格」、または「格局」という名称を用いたものと推定される。
そして先にも述べたように、このような見方や占断方法は何も七政四余占星学だけにとどまるものではない。
初期の四柱(子平)推命や紫微斗数でも同様に見習われて採用され、「格」または「格局」として中国命理占術に欠かすことのできない存在として研究対象にされてきたのであった。
歴史的推移から考えると、四柱(子平)推命や紫微斗数のほうに「格」や「格局」が先にあって、七政四余占星学が後からそれを追従して採り入れたものとはどうしても考えられないからである。
このような一見中国で生まれたかに見える占断技法が、実は中国以前から存在しているというのは決して珍しいことではない。
例えば、七政四余占星学で用いる「身宮」などにしても中国だけの特産品ではないのだ。
このような事実は中国命理占術に相当精通している方であっても知り得なかったに違いない。
ちなみに「身宮」というのは、西洋占星学でいう12ハウス(12宮)とは別の<もうひとつのハウス(宮)>で、12ハウス(12宮)に重なるような形で出生天体図内に位置している。
だいたいあなたが西洋占星学のみの研究家なら、「身宮」というもの自体理解に苦しむ存在かもしれない。ただあなたが紫微斗数の研究家なら、「身宮」そのものについては知っていると思うことだろう。
「格」と同じように紫微斗数占術では採用されているからだ。(紫微斗数の研究家の中には、「身宮」は確かに紫微斗数で採用されているが、「格」は紫微斗数では採用していないと勘違いしている方もいるかもしれない。それはあなたが近年の紫微斗数しか知らないからである。)
『紫微闡微録』という中国明代の書物には、「命宮」は太陽暦に基づく宮であり、「身宮」は太陰暦に基づく宮であり、それは命理学に共通した認識であると云った風なことが記されている。
そして、その共通した認識を古典的なインド占星学は持っていた。
古典的なインド占星学においては、月のある宮は「誕生宮」または「本命宮」と呼ばれ、12星座宮の上昇点(アセンダント)がある「上昇宮(第一ハウス)」=「命宮」と共に重要視されていた。
この「誕生宮」または「本命宮」を起宮として運勢判断を行う方法もある。
インドにおいては、欧米の西洋占星学のように太陽のある宮を「誕生宮」とは呼ばないのだ。
インドで「ヨーガ」と呼ばれていたものが「格」または「格局」として中国化されたようにインドで「誕生宮(ジャンマ・ラーシ)」と呼ばれていたものが「身宮」として中国化された可能性は大きい。
実際、現代の「身宮」の表出方法とは異なるのだが、『果老星宗』の原書では月のある宮を「身宮」と記述しているからだ。
月のある宮の話が出たついでに記しておくと、月が通る白道星宿をインドでは27宿、中国では28宿として最初から捉えていた、と認識している人が多いと思われるが、これは厳密に言うと正しくない。
インドから中国へと占星学などの学術が伝播していたころのインドでは27宿と28宿の星宿説が両方とも存在していたのだ。より注目すべきは、イスラム圏のアラビア占星学においては、27宿の方ではなくて28宿の方が採用されていたことである。
チベットのラマ密教占星術では27宿と28宿の両方を同一書籍の中でも使い分けているように見える。
したがって、月の28星宿を中国だけの特産品と見ることはできない。
ただし、中国では歴史的史料からいって紀元前443年にはすでに28星宿を赤道星座(インドやアラビアやチベットは黄道星座の可能性もある)として図像化している。
