漢方治療の基礎は『黄帝内経』、『傷寒論』 など、中国の古典に基づいています。
●最古の薬物書「神農本草経」
中国医学の源流は黄河、江南、揚子江の三つの文化圏にさかのぼるといわれています。
黄河文化圏を形成した種族は遊牧の民でした。
気候の激変するステップ地帯での医療は頭部や四肢などの露出部を、石や骨で刺激したり、溶血したり、火熱したりする針灸医学が主でした。
その原典は、伝説の帝王黄帝とその臣である六人の医者との対話を記録した「黄帝内経」で、素問と霊枢に分けられ、古代中国医学の基礎理論が述べられています。
江南文化圏は気候温暖で、地味が肥え、 草木が豊かであったので薬物療法が発達し、 漢代にほぼ完成しました。
その医術を集約した文献が、「傷寒雜病論」です。
「傷寒雜病論」の現存するテキストは「傷寒論」と「金匱要略」で、ともに後漢の長沙の大守、張仲景が著したものとされています。
温暖な風土は病原生物にとっても絶好の地で、流行病が発生しやすく、張仲景も流行病で多くの親類縁者を失いました。
そこで後世の子孫のために、傷寒(急性熱病伝染病)の治療法をまとめました。
これが今日、漢方医学の聖典とされている 「傷寒論」です。
また、急性熱病以外の慢性難病の治療を論じたものが「金匱要略」 です。
この二つの書は、きわめて高度な臨床治療体系をなしており、またきわめて実用的であり、漢方医学の原典として漢方を学ぶ人の必読の書とされています。
揚子江文化圏は天然資源に恵まれ、多くの薬物を産しました。
今でも漢薬の主産地となっています。
この文化圏の古典は、伝説上の帝王で農耕の祖といわれる神農の名を冠した「神農本草経』です。
現在知りうる最も古い中国の薬物書です。
現存するものとしては、陶弘景(五〇〇年頃)がこれに注を加えて着した「本草経集注』が最も古い薬物書です。
その後唐代になりますと、 諸外国との交流が盛んになり、海外から多くの薬物が入ってきます。
唐代の実用薬物を網羅したのが「新修本草」です。
その後宋代には「証類本草」が編され、これが中国本草書(薬物書)の聖典とされています。
明代になりますと、李時珍の本草の労作『本草綱目」が出版され、江戸初期からの日本の本草学に多大の影響を与えます。
●日本の漢方研究
日本に中国医学が伝わったのは五五〇年ごろで、その後、遣唐使、遣隋使たちにより直接中国文化の摂取が始まるや、当時の中国医書、薬物は陸続と伝わり、平安時代の中ごろには日本人の手になる書物(『本草和名」「医心方」など)も著されるようになりました。
とくに江戸時代には、「傷寒論」 を医法とする「古学復興」運動が日本の漢方を一段と進歩させました。
薬物の主治主効を試効した香川修徳の「一本堂薬選」、刑屍の腑分けを行い剖観した山脇東洋の『蔵志」、「傷寒論」の処方を近代科学的思想で解析した吉益東洞の「薬徴」などは日本の漢方医学の発達に大きな影響を与えました。
また江戸時代末期の小野蘭山の著「本草綱目啓蒙」は、薬物の書ではありますが、 博物学が強く、その後のヨーロッパの近代科学の導入の道をつけました。
