花の香に寄せて 仏の教え( 副題 生活と祈り )
最近の世相は、とても暗いですが、また、仏教の経典は、なじみにくいものですが、花の香りに寄せて、現代風に、わかりやすい詩をつくってみました。
花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。
ひとり咲き、ひとり散るものではない。
この世の中には、三つの誤った見方がある。
もし、これらの見方に従っていくと、この世のすべてが否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。
二つには、ある人は、それはすべて神のみ業(わざ)であるという。
三つには、またある人は、すべて因もなければ縁もないものであるという。
人の心の変化には限りが無く、そのはたらきにも限りがない。
汚れた心からは汚れた世界が現れ、清らかな心からは清らかな世界が現れるから、外界の変化にも限りがない。
人が思うから有るのではなく、人が忘れるから無いのでもなく、人の喜ぶときに来るのでもなく、人の怠るときに去るのでもない。
仏そのものは、人の心のさまざまな動きを超えて存在する。
仏の身は、あらゆる世界に満ち、すべてのところにゆきわたり、人々が普通持っている仏に関する考えにかかわらず永遠に住する。
花の香りは、風に逆らっては流れない。
しかし、善い人の香りは、風に逆らって世に流れる。
すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。
汚れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
しかし、もし善い心でものを言い、また身で行うと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。
悪い行いをする人は、その悪の報(むく)いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。
この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。
また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。
心は、人を仏にし、また、畜生にもする。
迷って鬼となり、さとって仏となるのもみな、この心のしわざである。
だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。
仏の本質は、肉体ではない。
さとりである。
さとりは、永遠に法と道とに生きている。
仏の心とは、慈悲である。
あらゆる手立てによって、すべての人びとを救う慈悲の心とは、人とともに病み、人とともに悩む大きな悲しみ慈しみの心である。
仏の慈悲をただこの一生だけのことと思ってはならない。
人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りが無く、人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底がない。
さとりの岸に立って、迷いの海に沈んでいる人びとに呼びかける仏のことばは、人びとの耳には容易には聞こえない。
仏がこの世に現われるのは、はなはだまれである。
もし、あなたが人より恵まれていたら、このように接してください。
( 出典 長阿含教、観無量寿経、大般若涅槃経、法華経、寿量品、心地観経、勝鬘経、華厳経、楞伽経、金光明経、法句経、首楞厳経 )
